おっと、森鴎外を批判するのはそこまでだ

やる夫で学ぶ脚気論争 - NATROMの日記に触発されたエントリーです。


はてなブックマーク - やる夫で学ぶ脚気論争 - NATROMの日記をみる限り、森鴎外を批判している人が多いように思うけど、それは正当な批判なんだろうか。ある程度までは正しい批判かも知れないが、過剰な批判というものも多いのではないだろうか。


つまり、我々はビタミンの存在を知り、ビタミンが欠乏すると病気になると知っているからこそ、森鴎外を批判できる訳なんだけど、ビタミンの存在を知らない当時の人にとっては、脚気感染症説にこだわるのも無理はないのではないかと考える次第。森鴎外に対する批判の中には、後出しじゃんけんの批判も含まれているんじゃなかろうか。



取りあえず、まず脚気について、おさらい。と言うか、Wikipediaから引いてみる。

病態
本症は多発神経炎、浮腫(むくみ)、心不全脚気心、脚気衝心)を三徴とする。
脚気 - Wikipedia

この症状を見て、誰が「未知の栄養素、ビタミン」が欠乏していると考えるのかな、とは思う。つまり、当時の学問から考えれば、感染症が原因だと考えるのは当然の事ではないだろうか。ビタミンの発見者のエイクマンだって、当初は感染症を主因だと考えていたのだ。脚気感染症説は森鴎外の荒唐無稽な説ではなく、医学的には妥当な見方だったのではないかと考える次第。

日本で高木が伝染病説や中毒説の矢面に立っていたころ,エイクマンは,前任者が伝染病論者であったため,脚気の原因菌探しに明け暮れていた.脚気患者から得た菌を動物(ニワトリ)に接種して病状が現れるかどうかをみていたのである.しかしいつも期待がはずれるばかりであった.ところがある日(1889*1(明治22)年7月),ニワトリが突然人の脚気に似た病気にかかっているのを発見した.
脚気病原因の研究史


1900年前後の時期に関しては、森鴎外の認識もそうずれたものではなかったと考える。その後に関しては、確かに認識はずれていたと考えるが。



ところで、NATROM氏は「米食にこだわった陸軍は日清戦争(1894年〜1895年)、日露戦争(1904年〜1905年)において、多くの脚気患者を出す」と書いているのだけど、これって、米食とか麦食の問題じゃないよね。麦にビタミンが含まれているとは高木兼寛も分かっていなかった訳だから、和食か洋食かと言う話になると思う。高木兼寛がどのように食事を変更したかというと、アシモフ*2によれば以下の通り。

高木は食事を大幅に変更して、若干のイギリス風な品目を加える事に決めた。白米の一部を大麦に代え、糧食に肉とエバミルクを加えた。すると見よ、日本海軍からは脚気が消滅した

このような食事を、日本陸軍の全員に行き渡らせる事ができるかなあ。当時の日本軍に、タンパク質豊富な糧食を充実させるのは無理な相談だと想うわけですけれど。何が言いたいかというと、高木兼寛の言が受け入れられたとしても、日本陸軍から脚気を根絶させる事は無理だったのではないだろうかという事。



最後に、壊血病のエピソードを紹介しておきます。どこかで聞いたような話で、大変興味深かったものなので

このアンソン航海の記録にショックを受けたリンドは、150年前のホーキンズ卿の観察を点検したうえで、軍艦に乗り込んで食事療法の実験を行い、1753年にその結果を「壊血病に関する論文」として刊行した。なお、アンソンの世界周航は、『帆船史話』(杉浦昭典著、舵社、1976)に詳しく書かれている。

 その論文によると、1747年5月20日、ソールズベリ号に乗船して海上に出た。そこで壊血病にかかった12人の患者を治療した。彼らの症状はいままで見たものと同じだった。そのうちの2人に1日当たり1クオートのサイダーを飲むように命じた。他の2人には1日3回アルコール性の強壮剤を飲ませることにし、他の2人には1日3回2匙の食用酢を飲せることにした。重症の2人には海水を続けて飲ませ、他の2人には毎日オレンジ2個、レモン1個ずつ食べさせることにした。その他の2人には病院の医者の指示にしたがい、1日3回練り薬(蜂蜜とシロップを混ぜた薬)を飲ませることにしたところ、オレンジとレモンを使った患者には、よい効果が急速かつ顕著にあらわれた。その1人は6日後には職務につけるようになったし、他の1人健康状態はかなり回復したという結果をえた(ハゲット63ページ)。

 これは決定的な実験であった。だが、内科医協会に無視され、海軍本部が塩入り食料を6週間食べさせた後には、レモン・ジュースを規則的に飲ませよという命令を出すまでに、40年もかかった。
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/hansen/page016.html

*1:1896年の説もある

*2:アシモフの科学エッセーでは高木兼寛が言及されている。鈴木梅太郎は言及されていないが