ドンキーコング裁判についてちょこっと考えてみる
ぶくま経由で、以下のような記述を見つけた。
これは、『ドンキーコング』の著作権が任天堂と池上のどちらに属するのか、開発を委託した際にきっちりと取り決めていなかったことが一番の原因でした。(なんと迂闊!)
任天堂法務部は別に最強じゃないよ列伝:Runner's High!:So-netブログ
ふーんと思い、wikipediaで確認してみる。
アーケード版『ドンキーコング』のプログラミングを委託された池上通信機は、1983年、著作権侵害を理由に任天堂に対する賠償請求を東京地方裁判所に申し立てた。池上通信機に無断での、任天堂によるドンキーコング基板の複製に対する契約不履行が、著作権侵害の理由であった。
ゲームデザイン本体は任天堂社員によるものである事と、契約履行後の池上通信機の請求権不在を理由に、任天堂はこの請求を斥けた。 この裁判は判決が下されないまま、両者の和解で決着した。
ドンキーコング - Wikipedia
さて、ここでプログラムが著作権法で保護される様になったのはいつ頃なのかを調べてみる。すると、以下のPDFファイルが見つかった。
ソフトウェアの法的保護の動きも活発化し,通商産業省と文化庁で各々新規立法や著作権法改正が提言されたが昭和60(1985)年3 月に至り,文化庁と通商産業省との間で,プログラムを著作権法で保護することについて合意した。
コンピュータ・プログラムの著作権法と特許法とによる保護の変遷
池上通信機による訴訟が提起されたのが1983年、プログラムが著作権法で保護される事が正式に決定されたのが1985年。ドンキーコング制作時点、および訴訟が提起された時点においては、プログラムが著作権法で保護される事が決定されていなかったわけで、任天堂がプログラムの著作権について池上通信機と取り決めしていなかったのも無理はない。しかし、そうだとすれば、池上通信機は何に基づいてプログラムに関する著作権の訴訟を起こしたのだろうかと言う疑問が残る。
さらにぐぐってみると、以下のような記述を発見した。
日本で最初にプログラムが著作物として保護されたのは1982年のスペースインベーダーパート?事件(夏井研)であり、著作権法にプログラムについての明文の規定がなされる前のことである。
日本のプログラムの著作権の問題点
著作権法に明記される以前の1982年に「プログラムが著作物であるとし、著作権法で保護するもの」と裁判所が認定したケースがあったという訳である。1985年の法改正を先取りしたような判決の様にもうかがえるが、この判決が文化庁・通産省の合意に影響を及ぼした面もあるだろう。それはともかく、池上通信機が訴訟を起こしたのも、この判決を参考にした面があったのかも知れない。
さらに読み進めてみると、以下のような記述があった。
システムサイエンス事件において東京高裁は、「プログラムはこれを表現する記号が極めて限定され、その体系(文法)も厳格であるから、電子計算機を機能させてより効果的に一の結果を得ることを企図すれば、指令の組合せが必然的に類似することを免れない部分が少なくないものである。したがって、プログラムの著作物についての著作権侵害の認定は慎重になされなければならない」と判示し、このシステムサイエンス事件高裁決定が日本におけるプログラムの著作物の創作性についての基本的な判例とみなされている。
日本のプログラムの著作権の問題点
1989年の東京高裁判決は、プログラムの創作性を1982年の地裁判決、及び1985年の著作権法改正より厳格に解釈し、この高裁判断が基本的な判例に見なされているとすると、池上通信機が訴訟を起こした1983年の時点においては著作権法で保護されているレベルであっても、1989年以後においては著作権法で保護されない場合があるのではないだろうか。1990年の任天堂と池上通信機が和解したのも、システムサイエンス事件を受けたものである可能性があり、和解せずに訴訟を続けていれば、池上通信機が敗訴していた可能性も考えられないではない。