SARSと闘った男〜医師ウルバニ 27日間の記録〜

昔書いたブログのエントリーを再掲してみる。以下転載。



この番組は、SARSの脅威に初めて気づいた医師、カルロ・ウルバニについての番組である。彼を知る人々の電子メールにから、彼の生き様を記録したものである。

ウルバニは在ベトナムのWHOの医師であった。若い頃からアジアやアフリカを周り、貧しい人たちへの医療活動に従事してきた。国境なき医師団に参加し、その経験を生かしたいと自ら希望してベトナムに来た。

1999年 イタリアのテレビ局のインタビューに答えて

私はどんな人にも区別なく満足な医療を提供したい
そのために医師として2つのことを大切にしたい
どんな障害にも屈しないことといつも患者の傍らにいることだ


カルロ・ウルバニは信念の男である

2003年3月3日、ハノイ市のWHO事務所に、市内のベトナム・フレンチ病院から電話が入る。中国から来た48歳のビジネスマンが肺炎に発症したと言う内容であった。発熱を訴え、入院して五日目に昏睡状態に陥り、人工呼吸器を付けなければ呼吸もできない状態であった。この年齢で劇的に症状が進んだことでウルバニはショックを受けた。

当時、広東省謎の肺炎が流行していた。この入院患者と、謎の肺炎の関連を疑ったウルバニは情報の収集に入る。WHOアジア地区責任者の奥谷医師と連絡を取るウルバニ。

そんな中、ハノイの男性患者が出国しようとする。家族が医療設備の整っている香港での治療を望んだのだ。ウルバニは病気の正体が分からないうちは出国するべきではないと考えたが、ウルバニには止める権限がなく、男性患者はついに香港へ出国してしまう。

男性患者が香港へ出国した日、フレンチ病院のスタッフが高熱で倒れた。いずれも男性患者を看護した看護婦や検査技師であった。発病した看護士たちが一般の患者と同じ病棟に入院した事に危機感を覚えたウルバニは感染防護対策を強めることを指示するとともに、患者たちへの聞き取り調査を始めた。彼のノートには患者が、中国系ビジネスマンの男性患者といつどのように接触したのかが詳細に書き留められていた。

そのころ、WHOは中国の謎の肺炎ハノイの肺炎は関連があるとみて調査していた。真藤医師は中国の謎の肺炎に対して研究者たちと連絡を取り合っていたが、確かな情報は得られなかった。ウルバニのメールだけが謎の肺炎の実体を伝えていた。WHOに対して、確かな情報を送っていたのはウルバニだけだった。

感染の兆候が拡大する中、ウルバニは未知のウィルスの情報をWHOに送り続け、ベトナム保健省に対し未知のウィルスが広がっている事態を世界に公表するように要求するが、騒ぎを大きくしたくない保健省は週明けまで待ってほしいと要求を拒む。

翌朝、フレンチ病院の十七人の医療関係者が肺炎を発症する。未知のウィルスによる不安と恐怖におそわれ、病院がパニックを起こす中、ウルバニは病院にとどまり患者の傍らに寄り添っていた。患者を勇気付けるため、病気を詳細に記録し未知のウィルスを突き止めるため。

事態に一刻の猶予が許されない状態でウルバニはベトナム保健省を動かした。世界に広まって収拾がつかなくなる前に警告することが自分たちの役割だと訴えることで。ベトナム政府は公表を決意し、WHOに正式に支援を要請した。

WHOは緊急に警告を出す必要があると考えていた。警告とともに、未知のウィルスによる感染症の診断基準を作成する必要があるが、診断基準の元になったのはウルバニのレポートだけだった。ウルバニの情報によって、早期に診断基準を作成することができ、WHOが的確な対応をすることができた。

ウィルスの対策が進む中、皮肉にもウルバニはウィルスに発症する。SARSである。病状は改善しないまま、ウルバニはその命を落とす。患者のそばに寄り添い、世界に情報を送り続けた代償である。

ウルバニは患者の傍らに居続け、どんな生涯にも屈しないと言う信念を持っていた。新型肺炎に関しても、自分の信念に基づき、命を落とした。彼の命と引き替えに、世界は新型肺炎に立ち向かうことができたのである。

何らかの危機に直面した時、人間は、自分の信念に基づき行動する必要がある。ウルバニの話を通し、自分の心に信念があるのか、危機に直面したときどのように行動するか、この番組は問いかけているのである。

NHKスペシャル:SARSと闘った男〜医師ウルバニ 27日間の記録〜