マンガが全てだった(2)
寺田ヒロオに関して。先日の番組をもう一度見返している訳だが、色々考えさせられる。
寺田さんはスポーツマン金太郎の人気絶頂の時に、連載を続けるのが嫌になり、編集者に頼んで連載を終了したらしい。その頃に、編集者の高柳さんに語った言葉。
「高柳さん、子供は目の先にある美味しそうなものは何でも飛びつくよ。それが本当に子供のためになるかどうかについての責任は編集者にあります。あるいはマンガ家にありますよ」 と言うような事をね、寺田さんは絶えず仰ってましたよ。
高柳さんが変わるか、少年サンデーが変わるか。そう言うような対立が最後まで続いた。
おそ松くんに対して「高柳さん、僕にとっては子供が飛びつくようなマンガだと思うよ。そう言うものを駄菓子屋のように並べるだけでは子供にとって決してよくない。子供にとっていいか悪いかと言う判断は、編集者がしなくちゃ駄目でしょ
私自身は寺田さんのような考え方はあまり好きではない。子供が何を読むかは、子供が決める事であって、大人が考える事ではないと思うから。いい影響ばかりではなく、悪影響も子供の成長のためには必要なのではないだろうか。
ただ、寺田さんの語る事も正論だと思う。子供は確かに影響を受けやすいし、マンガやゲームに影響されて犯罪を起こす人も現実にいる以上、避けては通れない問題だとは思う。
印象的なのは、高柳さんが寺田さんの事を熱っぽく語っていたこと。意見が対立しているにもかかわらず、寺田さんの事が好きで好きでたまらないという感じで語っていた。誰にでも好かれる方だったんだろうね。
http://www.lcv.ne.jp/~shipi/tokiwa2.htmに寺田さんの作品リストがあり、それを眺めてみると、週刊マンガ雑誌での連載はスポーツマン金太郎一本しかなく、あとはほとんど少年しや学年誌。金太郎の連載終了後、基本的には学年誌の連載にシフトするようになるわけだが、意外に連載が少ない事に驚く。同時期の藤子・F・不二雄に比べて明らかに少ないのだ。
番組では、厳しい競争の週刊少年雑誌を退き、学年誌での連載にシフトしたみたいな語り口だったが、実際のところはどうだったのか。学年誌も寺田さんの安住の地ではなかったと言うことなのかな。
晩年、寺田さんは茅ヶ崎の自宅から離れず、誰の目にもあわない日々が続いたそうだ
電話が掛かってきて、電話の向こうで泣いてるのが分かるんですよ。「会いたい」って。今すぐにいくからと言うと「来ないでくれ」 会いたいんだけど、来ないでくれ。寺田は死にたがったんじゃないかな。ゆっくりゆっくり、死んでいったんじゃないかな
棚下照生氏
そして、寺田さんはお酒を手放せなくなっていく。老人性の鬱病だったのかも知れないが、それはわからない。しかし、繊細な神経の持ち主であったのは間違いないと思う。トキワ荘時代の「兄貴分」「リーダー格」という印象は、おそらく本当の寺田さんではなかったと思う。寺田さんは、自分で自分の性格を作り上げていったんだろう。
1990年の6月、トキワ荘時代の面々*1が集まって、寺田さんを励ます会が行われたという。その時の様子を撮影したホームビデオの映像が流されていたのだが、寺田さんからは確かにナイーブそうな印象を受ける。でもみんな楽しそう。
次の日に僕は電話を掛けた。お礼に。そしたら奥さんが出た。いやぁ、昨日は御馳走さまでした。テラさんに変わって。そしたら奥さんが「寺田は今日限り、いっさい他の人たちには会わないし、電話にもでないと言っています」 結局それが最後だった。だからテラさんの中ではそれが最後の夜で、彼の中で決断が入ったんじゃないですかね。一種の緩慢な自殺というんでしょうか。
我孫子素雄氏
もう本当亡くなるまで、あの時は嬉しかった嬉しかったって、死ぬまで言ってました
寺田紀子さん
どういう心境だったんだろうか。