JASRACを制するもの


JASRACシリーズもこれで一応の結末となる。前回まで、JASRACは官によって「規制」されないと言う事を中心に書いてきた。特殊法人でありながら主務官庁の下にはおらず、規制緩和によって文化庁による足かせが外されたという事を見てきた。では、JASRACは野放し状態なのだろうか。形式的には、そんな事はない。JASRACを縛るものは、きちんと用意されている。敢えて「形式的」と言ったのは、その用意されている足かせを私たちが上手く使いこなしていないからだ。


規制緩和と言うのは心地よい言葉であるが、規制緩和が裏に隠し持っている大きな意味を多くの人は気が付いていない。規制緩和というのは「官僚から権限をはぎ取る」訳ではなく、「官僚が持っていた権限を民が受け継ぐ」と言う事なのである。具体的には、著作権等管理事業法の第二十三条を利用する事により、利用者はJASRACを縛ることができる。

第五章 使用料規程に関する協議及び裁定

(協議)
第二十三条 

(中略)

2 指定著作権等管理事業者は、当該利用区分に係る利用者代表(一の利用区分において、利用者の総数に占めるその直接又は間接の構成員である利用者の数の割合、利用者が支払った使用料の総額に占めるその直接又は間接の構成員が支払った使用料の額の割合その他の事情から当該利用区分における利用者の利益を代表すると認められる団体又は個人をいう。以下この章において同じ。)から、第十三条第一項の規定による届出をした使用料規程(当該利用区分に係る部分に限る。以下この章において同じ。)に関する協議を求められたときは、これに応じなければならない。
著作権等管理事業法

つまり、JASRACの提示する著作権使用料に不満があれば、利用者代表を作る事によってJASRACと協議する事ができる訳である。逆に言えば、JASRACに対して不満を言うのであれば、利用者代表を作った上でJASRACに対して直接不満を言えと言うことにもなる。JASRACに対して直接話し合いができる制度がある以上、それを利用しない手はない。


しかし、これには大きな問題がある。つまり、日本社会が成熟していない事なのである。もっと言えば、規制緩和が時期尚早だったという事である。規制緩和によってJASRACが官のコントロールを脱した以上、権利者団体と協議をしなければ何も変わらない訳であるが、何かを変えるためにはいくつかの前提条件が必要であるわけだ。

  1. 利用者が集まって利用者団体を作る
  2. 利用者団体の中で合意を形成する
  3. 権利者とねばり強く交渉する

これがアメリカなら、市民団体が発達しているのでこのあたりの事に習熟している人材には事欠かないのであろうが、ここは日本である。何事もお上任せで来たために、市民が自ら行動するという文化が根付いておらず、結果として権利者団体が決めた事がそのまま通ってしまう。規制緩和は必要なことであろうし、著作権管理団体を民がコントロールするのは必然だったと思う。しかし、タイミングについてはどうだったのだろう。市民が自ら行動するようになるまでは、規制緩和は行うべきでなかったのかも知れない。


しかし、さいは投げられた。規制緩和が行われてしまった以上、著作権の世界に置いては、利用者が自ら行動しなければならなくなったのである。善かれあしかれ。


境真良氏のブログに、規制緩和の本質、そして民主主義の本質について、よくまとまっている部分があるので、そこを引用してこのエントリーを締めることにする。

 「政府や大企業を批判する」うちに、(少なくとも表面的な)自己反省を政府や大企業がして、うん、だったら民主主義なんだから自分たちは民主的に決まったことを忠実に実行するマシンになります!と言った瞬間に、批判の矢は自らに帰る。 一部の左翼的言説が時としてとても欺瞞的に僕には見えることの原因は、この構造によって「受け止められたら矛盾する」、或いは「拒否されることによって意味を持つ」ような性質を持つ主張が散見されることにある。

 政府や大企業が批判に答えて従来の機能を放棄する時、発言者として発言の自己責任が問われることになる。部分的な視野しか持たず、特定の事象に対して表明する不平不満は、政治的批判としては極めて品位の低い、危ういものである。
自己責任の時代のロビー活動 - 感量主導 ~ led by passion ~