閲覧権という言葉の重み

角川氏は、2つのリスクを解消し、2つの誤認を取り除くための方策として、国益の視点から著作権法を見直し、新たに“閲覧権”という権利を創設すべきと主張する。例えば、映画の収益では、劇場公開による「一次利用」、DVDパッケージの販売やレンタルによる「二次利用」といったモデルがある。角川氏は、インターネットによる配信を「三次利用」と位置づけ、映像を閲覧したユーザーから、視聴料金とは別に料金を徴収する権利として、“閲覧権”の必要性を訴えた。
ネット配信で「広く薄くあまねく」徴収する“閲覧権”創設を

閲覧権とは、これまた凄いことを言うお方だなと思った。ネット上の反応は賛否両論と言ったところだろうか。閲覧権に対して、否定的な見方をされておられる方の方が事の重大性を理解しているような印象を受ける。私としても、閲覧権という言葉が重大な意味を持っているように思う。なぜならば「閲覧権=アクセス権」であるからだ。


アクセス権を創設するということは、権利者に対し、情報にアクセスさせない権利を与えてしまうと言う事を意味する*1。利用者が見たり、聞いたりする事を差し止めることが出来るわけだ。もちろん、そんな事はデジタルの世界ではともかく、アナログの世界で行う事はできない。従って、アクセス権を創設する場合、アナログの世界のものに関しては適用除外となるとは思う。デジタルに関しては、身近な例であればDVDのCSS解除が違法になる。なによりDRMがあれば、アクセス権などという権利を創設する必要がないのだ。


角川社長自身は、閲覧権に対して深く考えているわけではなく、アクセス権の様な強力な権利を創設すると言う意図はないのかも知れない。しかし、角川社長が言うように「映像を閲覧したユーザーから料金を徴収する権利」が認められた場合、それが非ネットワークの世界にも認められるというのは目に見えている。閲覧権が、映像を閲覧したユーザーから料金を徴収する権利に留まらず、漫画喫茶を利用したユーザーから料金を徴収する権利図書館を利用したユーザーから料金を徴収する権利古本屋を利用したユーザーから料金を徴収する権利へと拡がってしまうのは確実である。閲覧自体に何らか権利を認めると、波及効果は非常に大きいものになるので、軽々しく言うべきではないとは思う。


矛盾するようであるが、アクセス権の創設には、私は反対しない。ただし、アクセス権というものを創設する場合、著作権法を一から書き直す作業が必要になると思う。例えば、DRMが掛かったコンテンツに関しては、複製権を認めないと言うように、従来の著作権法を百八十度転換する必要がある。アクセス権とは、何年も何十年も国民的な議論を行い、著作権の本質を著作権者や利用者が考えに考え抜く作業を行って、はじめて可能になる権利だと認識している。

*1:報酬請求権の場合、利用者が情報にアクセスした場合、権利者が利用者に対して報酬を請求する権利と言う事になる