今さらながら「ヴェルディは死んだ」

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まず思ったのは、この人はヴェルディが死んだかどうかなんてどうでもいいのだなと。このエントリーで本当に書きたいと言うか、考えたかったのは、「フロンターレらしさとは何か」って事で、ヴェルディは単なる枕に過ぎないんでしょうな。

チームに残るものがある限り、そのチームは生き続ける。そのチームにしかない、「そのチームらしさ」があれば。
それが死にかけたチームの復活の呪文にもなる。

個人的には逆だと思う。つまり、そのチームが生き残っている限り、後には何かしら残すだろうと。どんな形であれ、存続しさえすれば「そのチームらしさ」が生まれると思うわけである。

そもそも、ヴェルディらしさとはなんだろう。歴史を踏まえれば、ラモス達が築き上げた読売クラブの伝統、ヴェルディ川崎に受け継がれたサッカーは98年に読売撤退とともに跡形もなく解体された。99年以降のサッカーは、桐蔭学園李国秀が築き上げたサッカーである。つまり、ヴェルディらしさとは一つではなく、「読売のサッカー」と「李国秀のサッカー」の二つ存在する。「チームらしさ」が失われてしまっても、以前とは違う「チームらしさ」が生まれてくるものだと思う。

チームは生き物であり、生き物は変容を繰り返しながら生き続けていく。メンバーは大幅に替わったが「東京ヴェルディ1969」と言うチームが存続している以上、去年とは異なる、何かしらの個性を発揮することになるだろう。その新しい個性を探しに、スタジアムへと足を運ぶわけである。