病気腎移植問題

アピタル(医療・健康・介護):朝日新聞デジタル

乗り遅れてしまった感もあるが、自分なりに考えてみようと思う。


この病気腎移植問題は、善悪の問題や、医療倫理の問題で片づけてしまうのはもったいない問題だと思う。確かに、感情では許せないものがあるのだが、医師と患者、医療と法律、科学と社会を考えるのに最適なモデルケースではないだろうか。


確かに、病気の腎臓を移植すると言うのは、批判が投げかけられて当然だと思う。病気の腎臓以前に、腎臓を含める臓器移植は手続きに従って行うべきであり、医師の裁量内で行うべきではないと思う。しかし、これは私が「安全地帯」にいるからであって、身近に腎不全の患者がいるわけでもないし、自分自身が腎不全と言うわけでもない。万波医師は、実際に腎不全の患者の苦痛を目にしているわけであろうし、そして、その方々を救える技術も知識も身につけているわけだ。自分がその立場だったら、手続きなどすっ飛ばして手術を行ってしまうかも知れない。少なくとも、手術を行わないとは断言出来ない。


かと言って、私は別に万波医師を擁護するわけでもない。手続きを踏んでいない、つまり、ルールに従っていないと言う点で批判するが、どのようなルールなら良いのかと考えるとなかなか答えは出ない。それに、万波医師は万波医師の考え方があるのだろう。「悪いことをしている」「モラルに反している」という理由で断罪するわけにはいかないと言いたいのである。単純に非難したり、単純に否定するのは簡単だけど、無意味だし、建設的でもないと思う。大事なのはなぜ「擁護」するのか、なぜ「批判」するのか、主張を明確にして議論することではないだろうか。


万波医師のこのような事をした背景には、慢性的な移植腎の不足と言うことがあるだろう。移植腎の不足の原因には、臓器移植ネットワークや臓器移植法の問題もあるだろう。では、臓器移植法はどうあるべきなのか、患者のためには緩やかな法律にするべきだろうし、社会のコンセンサスを考えた場合には厳しくしなければならないかも知れない。臓器移植ネットワークの手続きはいかにあるべきだろうか、提供カードのシステムは今のままでいいのか……等々、考える材料には事欠かない事件だと思う。


繰り返すけど、万波医師の行為を批判するのはたやすいことである。しかし、その前にやるべき事がたくさんあるのではないかと思うのである。