イレッサに見る矛盾


世間では「薬害イレッサ」と読んでいるが、これは本当に薬害なのだろうか。つまり、厚労省は患者の利益を考えスピード承認に踏み切ったのだが、結果的に薬害と呼ばれ、世論やマスコミから袋だたきに遭ってしまった。

なぜ、イレッサはこんなに“優遇”されたのか。厚労省は、市場投入が遅れると患者の不利益になると判断したとする。

東京のがん専門医は「発売前からメディアで取り上げられ、自ら投与を願う患者が多かった。医師としても断りにくい」と話す。ア社は初年度約7500人への投与を想定していたが、昨年12月までの販売錠数から推定される投与患者は約1万9000人。副作用データが集まらないうちに短期間に利用者が膨らんだことが、想定を超える副作用被害につながった。厚労省は昨年10月、「緊急安全性情報」を出し注意を呼びかけている。

この副作用問題が新薬審査のスピードアップに水をさすことを懸念する声もある。患者団体「癌(がん)治療薬早期認可を求める会」(大阪市)の代表を務める三浦捷一医師は、「副作用の有無はある程度予測できるし、イレッサが末期肺がん患者の2割に効果があるのは確か。副作用ばかりが強調されて、新薬認可に滞りが生じるようでは困る」と話す。
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/news_manabu11.htm

このような話を聞くと、薬害エイズとどうしても関連づけてしまうのだ。薬害エイズ裁判では厚労省の不作為が責められ、担当課長が刑事罰を受けた。さて、イレッサではどうだろう。厚労省は患者の利益を考え、スピード承認に踏み切った。しかし、結果が悪かったため厚労省は同様に責められた。「作為」だろうが「不作為」だろうが世間は構わないのだ。結果が悪ければ役人を責めるのだ。

承認が遅れていたとしよう。その場合、末期がん患者や、末期がん患者の遺族が「厚労省の怠慢によりイレッサの承認が遅れていたがために、延命する事ができなかった。厚労省の怠慢がなければもっと長く生きることができたのに」と厚労省の責任を追及するだろう。また、「イレッサは輸入薬である。厚労省イレッサを認可しないのは国内製薬会社との癒着があるためだ」と責めた人もいるに違いない。


さて、薬害エイズイレッサの図式を当てはめてみるとどうだろう。輸入加熱製剤も早期承認されたものだとは昨日書いた。仮に、未知の副作用が加熱製剤に潜んでいたらどうだっただろう。イレッサの構図を見る限り厚労省は袋だたきにあっていたに違いない。結果的に輸入加熱製剤が安全だったから、非加熱製剤の回収が遅れた事を叩かれたのであるが。

逆に、本件加熱製剤等の投与によって何らかの有害な結果を生ずる危険が皆無であったわけでもない。しかし、何らかの有害な副作用を生ずる危険を本来的に避け難いという性質を有する医薬品について、その安全性をつかさどる薬務行政においては、絶対的な危険性や安全性のみを考慮するだけではその職責を十全に果たし得ないことは明らかであって、前記のような代替医薬品との間における有用性の有意な差の存在は、十分に行政権限発動の契機となり得るものであったというべきである。
http://www.jca.apc.org/toudai-shokuren/matumura-tisai/06-2.html

上記のように裁判所は言うのだが、加熱製剤の投与により重篤な副作用が生じたとしても、裁判所や世論は厚労省を批判しなかったのだろうか。私にはそうは思えない。加熱製剤で重篤な副作用が生じた場合でも、厚労省は罪を問われ、責任を問われたに違いないのだ。


「作為」でも叩かれ、「不作為」でも叩かれる。そのような矛盾と理不尽というものを、私はイレッサ問題に感じるのである。