予防接種も同じ事なんだろう


屈託なく予防接種を考える事は許させるのだろうか。

駆け出しのときに阪神大震災にあって、はからずも「トリアージ」という現場に立ち会うことになった私としてはですね、人命を救ったり見殺しにしたりした実体験のとぼしい人に、たとえ話のネタでトリアージ云々言われるのはむかつきます。商売の仕方を間違えて客層がおかしくなった百貨店と、あの朝あの救急入口で亡くなっていった人とかあるいは救急まで運ばれることもなかった人とを同列に並べて、自分の話を解さない奴はナイーブだとか感情的だとか仰られてもねえ。いい気なものだと思います。
救ったこととか見殺しにしたこととかあるのかな : こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

この話を読んで、予防接種を連想した。


予防接種は統計的に見て副作用が必ず起こる。死亡例も必ず発生する。しかし、日本全体の感染を少なくするためには予防接種が必要なものであると思う。従って、私は今まで予防接種の義務化に反対する人をどこか冷たい目で見ていた。

例えば、海外から日本が麻疹輸出国と呼ばれているとの報道を聞くと「予防接種反対派が反対しているから、日本が冷たい目で見られているんだよ」と言う事を、今までは思っていた。しかし、yamakaw氏のエントリーを読んで、自分が間違っていたことに気が付いた。副作用を受けていない身であるし、予防接種により副作用を起こさせた経験もないので、必然的に言葉が軽くなってしまうのだ。


予防接種に対する考え方を改めなければならない。つまり、予防接種で副作用を受けていない身が、予防接種義務化反対運動を冷ややかに眺めたり、予防接種義務化に賛成したりする事は許されないかも知れない。予防接種は受けたい人だけが受ければいいものであって、頭だけで「最大多数の最大幸福」を考えるのは確かにいけない事なんだろう。

予防接種の義務化というのは、全国民に対し、副作用のリスクを強制する事になってしまう。予防接種による副作用を受けた人、予防接種による副作用を起こした医師であって初めて正面から語れる事であって、外野がとやかく言うことではないのかも知れない。


ただ、本当に屈託なく語ってはいけない事なのか、とも思ってはいるのだが。ともかくも、予防接種に対する考え方を改めなければならないのは確かである。