価値がないから面白い

そういった時代に「知っている」それ自体は何の価値も持たなくなる。

問題はその知識をどう使っているか、だろう。

広く浅い断片的な情報をパラパラと並べるだけなら誰でもできる。

それらの情報を体系づけて自分の論を構築したり、独自の創造物へと発展しないとね。

「知っている」それ自体にはもはや何の価値もない - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

この意見を聞いて、唐沢俊一氏の記述を連想した。町山氏の見解の対極なので、紹介してみようと思う。

 学問というのはひとつひとつの知識が有機的に結びついた体系のことを言うわけで、こういう雑学というのは、学問にもならぬ無駄な情報の切れっ端でしかない。

 しかし、切れっ端だからこそ、こういう雑学を集め、覚えるのは無性に楽しい。アイザック・アシモフによると、人間の知識欲とか好奇心というのは、それが生存の本能に基づいているとかいうのでなしに、ただ頭脳の記憶容量を満たすためだけの純粋な欲求だということだ。

 逆に言うと、何の役にも立たぬ雑知識をひたすら貯め込むというのは、人間だけに与えられた特権というわけだ。

 したがって、雑知識というのは、それが純粋に雑学、つまり、何の役にも立たぬ無益さの割合が大きければ大きいほど、優れていると言わねばなるまい。

 私も昔からこの雑学一行知識が好きで、それ関係の本もだいぶコレクションしてきたが、一概に、日本の、それも『新・社会人のための一行知識』といったたぐいの本は、その雑学を職場でのコミュニケーションに役立てよう、と言うようなヨコシマな下心があって、どうも読んでいて面白くない、無用無益という雑学の本道から外れているのである。
カラサワ堂変書目録 P.88

知識は活用しなければ意味を成さない、価値がないというのは確かに正論なのだが、知識を覚える事、それ自体が人間の欲求なのだと主張している唐沢氏の見解の方に、私は魅力を感じてしまう。