石黒忠悳が批判されない理由がよく分からない


脚気に関して、森鴎外に対して批判的な意見、もっと言えば薬害エイズの時の安部教授の様な「お前がいたから脚気で何万人も死んだんだよ」という意見が目立つのだが、それはいささか不当な批判ではないかと思う。


例えば、よく見かける批判が、森鴎外脚気感染症説に固執していたと言うものである。

当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。
森鴎外 - Wikipedia

しかし、私が調べる限り、森鴎外感染症説を主張した事実は無いように思えるのだが。

森の上官である軍医監石黒忠悳は、早く1878年に『脚気論』を出版して細菌説を唱えていた。1885年に海軍の高木、陸軍の堀内らの麦飯説(栄養障害説)が有力になり始めると、それに対抗してあらたに『脚気談』(1885)を出版して、栄養説は信ずるに足らないと主張した。この石黒に歩調をあわせるように、ドイツにあった森は「日本兵食論大意」(15)を書いて、精白米6合を主とした日本陸軍の規定食糧がドイツ陸軍に比してなんら遜色はないと論じた。
日清・日露戦争と脚気

陸軍でも脚気は問題であった。当時の石黒軍医総監はピルツ(カビ)原因説を重視しており、感染病因の追及に期待をかけていた。東京帝国大学の研究者も同様感染症を中心に懸命の努力を続けていた。ドイツに留学し兵食を研究していた陸軍の森林太郎は、高木の研究の評価を求められ、早速「日本兵食論大意」を執筆し、それを基礎に回答として、陸軍では海軍の10 倍の兵士があり、日常習慣もあり、米食の制度を変えるのは難しい、洋食調理は陸軍では困難であり、栄養素的には日本陸軍の兵食は欧州の兵食と比べ遜色がない、したがって現行でよく、問題があれば検討すればよいとしている。
我が国の非感染性疾患疫学的研究の歩み その1

感染症説を言い出したのは軍医総監石黒忠悳であり、森鴎外は石黒忠悳一派であるため、不当なレッテルを貼られているとしか思えない。確かに、森鴎外日本兵食論は石黒忠悳の主張を補強しているように見えるけど、感染症説を主張しているのと、感染症説を補強しているのとは意味合いがまるで異なると思う。


もっと言えば、森鴎外脚気には関心がなかったのではないだろうか。森鴎外がこだわっていたのはあくまでも日本食であり、米食なのであって、脚気を撲滅しようとか、そのような考えは特に抱いていないのではなかったのだろうか。無理に森鴎外脚気との関係を結びつけるために、解釈にゆがみが生じているのではないかと思う。



また、森鴎外が、日清・日露戦争脚気死亡者に対して全責任があると言う言い方もされているが、これも不当なレッテルというか、間違いだと思う。なんとなれば、森鴎外は責任を取る立場にないからだ。意外と忘れられているようだが、森鴎外が軍医総監の地位に就いたのは、日清・日露戦争が終わってからの事である。日清・日露戦争における脚気の全死亡者に対して、第一の責任があるのは軍医で一番偉い地位である軍医総監だと考えるわけだが、森鴎外は戦争中、軍医総監の立場ではないのだ。では、日清戦争日露戦争時の軍医総監は誰かというと、ご存じ、石黒忠悳である。

1871年、松本良順の勧めで兵部省に入り軍医となった。佐賀の乱西南戦争に従軍。1890年、陸軍軍医の最高位である軍医総監に昇進し、同年から7年間陸軍省医務局長を務めた。1901年予備役、1907年後備役、1912年退官。この間、日清戦争日露戦争で軍事医療に尽くした。
石黒忠悳 - Wikipedia


もちろん、森鴎外日露戦争時は第二軍の軍医部長だから、第二軍に関しては責任を持つ立場にあるが、第一軍、第三軍においては、それぞれの軍医部長が属しているわけで、公平に見れば彼らにも責任はあるという事になろう



以上から、脚気感染症説に関しても、日清・日露戦争による脚気死者数に関しても、第一に責任を持っているのは軍医総監石黒忠悳であり、森鴎外にもある程度の責任がある事は否定しないが、不当な責任を負わされている面はあると考える。そう考えれば、森鴎外はいささかな不幸な人物であったのかも知れない。


追記
タイトル変更しました
×「森鴎外が批判されている理由がよく分からない」
○「石黒忠悳が批判されない理由がよく分からない」

id:NOV1975さんへの非礼をお詫び致します