北里柴三郎と東大派の対立を考える


明治時代の医学に関心があるものにとって、北里柴三郎東京帝国大学の対立は常識であり、興味を引くトピックであることは間違いないだろう。たとえば、Wikipediaにも、以下のようにある。

ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、恩知らずとして母校東大医学部と対立する形となってしまい帰国後も日本での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し東大の下部組織にするという方針を発表した。長年の東大との対立が背景であるといわれている。柴三郎はこれに反発し所長を辞、柴三郎は新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立した。
北里柴三郎 - Wikipedia


これが一般的な認識だと思う。ただ、ちょっと調べてみると、この図式が成立するのか否か、微妙になってくるような情報がたくさん集まってくる。これらの事実を並べてみると、北里柴三郎と東大との間には、学問的な対立はあっても、感情的な対立や派閥争いみたいなものは存在しなかったの様にも思うのだが、その辺りは個人の価値判断の問題だろう。このエントリーでは、私の主観に基づいた、北里柴三郎と東大との関係を考察してみようと思う。


事実1.緒方正規の弔辞を読んだのは北里柴三郎である

しかし、研究上の対立とは別に、私生活では緒方正規と北里柴三郎の交流は終生続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を奉読した。緒方正規は生来温厚な人であったという。
北里柴三郎


Wikipediaの記述では緒方正規と北里柴三郎の間に感情的な対立があり、それを発端として北里柴三郎と東大の対立が始まったように受け取れるが、緒方の弔辞を読んだのが北里柴三郎なのであれば、おかしくなってくる。二人の対立はあくまでも学問上の対立であり、感情的な対立ではないように受け取れる。二人の間に感情的な対立が存在しないのであれば、東大と北里柴三郎の間の対立がどの程度のものであったか、再評価をする必要があるのではないだろうか。


事実2.青山胤通は北里柴三郎を評価していた

東大の青山胤通といえば反北里柴三郎派として有名で、wikipediaにも以下のように紹介されている。

北里柴三郎野口英世の排斥者、批判者として知られる。鈴木梅太郎の業績を批判したとも言われるが、これは別人であるとの説も根強い。[要出典]森鴎外とも親交があり、彼の親友である原田直二郎の治療も行っている。
青山胤通 - Wikipedia


しかし、青山胤通自身は、北里柴三郎を高く評価していたらしい。

 東京帝国大学側の伝研問題の記録*1を調べてみた。当時の山川健次郎総長によると,自身の総長時代の難問の1つが伝研の移管問題であったとして,その経緯が記されている。  一木文部大臣の勧めで,「学術研究は文部省の所轄として大学が之に当たり,別に財団法人の機関を設けて血清の事業に当たらせよう」という提案がされた。内科の青山教授は賛成したが,薬理の林,病理の長与教授は断固反対し,「受けるなら事をすべて受けるのがいい」と主張。医学部長であった青山教授は衛生学を衛生学と細菌学に2分し,細菌学は北里柴三郎氏を教授として迎えたいという希望を持っていたが,大隈首相は直情直言直行の性格で移管を閣議で決定し進めた。外科の佐藤三吉教授が大隈首相に聞いたところ「我輩は身体のことなら青山君の指図を聞くが,政治は自ら別である。北里君も医界の硯学であることから十分に尊敬するが,しかしサイエンスは大学に委ねたほうが医政の常道であるのみならず,研究にも便利であると信じて決行したんである」と答えている
医学書院/週刊医学界新聞 【新春随想2004(吉倉廣,三砂ちづる,松田晋哉,加我君孝,内山充,加藤良夫,夏井睦)】 (第2567号 2004年1月12日)


伝染病研究所移管問題が、大隈重信首相の政治的判断である事も興味深いが、青山胤通が北里柴三郎を東大の教授として迎え入れる希望を持っていた事はより興味深い。Wikipediaにあるように青山が北里の排斥者であるのならば、東大の教授として迎え入れるという発想はでなかっただろうと思う。細菌学者としての北里の手腕を高く評価した上での、青山の希望ではなかっただろうか。


事実3.北里柴三郎森鴎外

森鴎外脚気に触れている資料においては、北里柴三郎森鴎外との間に対立があったとしている資料が多いのである。つまり、森鴎外を中心とする東大派は脚気感染症によるものだと認識しており、脚気感染症説を否定した北里
とは対立関係にあったという資料が多いように思われる。


ただ、森鴎外北里柴三郎との間に感情的な対立があったのかというと、私は疑問を抱いている。なんとなれば、陸軍の臨時脚気病調査会を立案し、議長に収まった森鴎外北里柴三郎に助力を求めているからだ。

脚気病調査会管制が公布されてまもなくの明治四十一年六月二日、かつての師であり、世界的な細菌学者であるドイツのコッホ(明治三十八年ノーベル医学賞受賞)が来日した。森にとってまことに幸いなことであった。当時、脚気伝染病説と脚気中毒説が大流行していたことから、脚気の研究法について細菌学の権利に教えてもらえれば何より為になる。森はコッホの意見を聞きたいと思った。

幸い北里柴三郎の仲介でコッホに会えることになり、六月二十二日、森と北里と青山胤通の三人が帝国ホテルにおもむいた。
鴎外 森林太郎と脚気紛争

森鴎外北里柴三郎との間で感情的な対立があったのであれば、森は北里に助力を仰がないであろうし、北里は森の要望に応えようとは思わないだろう。何らかの対立はあったのかも知れないが、二人の人間関係にそこまでの影響は及ぼさなかったのではないかと考える次第である。

また、森鴎外が東大派と言えるのかどうか、少々疑問を持っている。

新医務局長・森の初人事で抜擢された新軍医監は松本三郎・三浦得一郎・中目成一・中館長三郎・長谷川春朗の五人であったが、全員非東大出身者であった。
鴎外 森林太郎と脚気紛争

森が東大派であるというのであれば、抜擢した軍医監には全員東大出身者を当てるはずであるが、森鴎外はそのようにしなかった。これを踏まえる限り、森鴎外は東大派と安直に決めつけるのは、疑問が残る。



最後に、私なりに、東大と北里柴三郎の対立を結論づけてみようと思う。手がかりになると考えるのは、以下の記述である。

現在もなお移管問題を東大対慶応,官立対私立のように書く人が少なくない。局所的にみるのではなく十分な双方の資料を調べ歴史を客観的に調べることでより本質がはっきり見えてくる。北里研発行の1656頁もある「北里柴三郎論説集」を読むと,本人の生の言葉がたくさん掲載されているので読んでいただきたい。
 本学の耳鼻咽喉科学教室の行事にも参加し祝辞を述べているように東京帝大との交流が盛んであったことがわかる。学問的論争はそれぞれの学説に立って活発に論争,友情は友情というのが北里柴三郎であった。お孫さんの明治製薬株式会社会長の北里一郎氏は,移管問題を後世の人がおもしろおかしく書いているが真実ではないと述べている。
医学書院/週刊医学界新聞 【新春随想2004(吉倉廣,三砂ちづる,松田晋哉,加我君孝,内山充,加藤良夫,夏井睦)】 (第2567号 2004年1月12日)

北里柴三郎と東大との間に、学問上の対立はあっても、感情的な対立、政治的な対立は存在しなかったと言うのが私の結論である。

*1:東京帝国大学側の資料であることに注意