「鴎外 森林太郎と脚気紛争」を読んでみたよ
- 作者: 山下政三
- 出版社/メーカー: 日本評論社
- 発売日: 2008/11/01
- メディア: 単行本
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脚気論争に踏み込んだあまり、このような本まで購入する羽目になってしまった。とほほほほ。信じてくれないかもしれないけど、先のエントリーを書くまで、森鴎外に興味なかったのに。
きちんとした書評は後で書くかも知れないけど、今日は、本を読んだ直後の第一印象を書き進めようと思う
この本のキモは、森鴎外を脚気撲滅の功労者として、再評価していることにある。ネタバレになるかも知れないが、本書の末尾は、以下のような言葉で結ばれている。
暗黒のなかで、高木兼寛は兵食を改革し海軍の脚気を撲滅する、というビタミンの先覚的な業績をあげた。森林太郎は臨時脚気病調査会を創設し脚気研究とビタミン研究の基礎をつくり、日本の脚気絶滅への道を開拓した。
ただ、論理主義の森と実践主義の高木とは見解と手法に相違があり、それが一見対立的な姿に見えた。しかし、「脚気の撲滅」という究極の目的は同じであった。すなわち表面的にはライバルの観があったが、真実は、共通の敵に立ち向かう戦友の関係にあったのである。そして高木は現役中に海軍の脚気を撲滅し、森は死去四〇年後に日本の脚気を根絶させた。
[P.461]
ただ、本書の中では、森林太郎が臨時脚気調査会の中で、いかなる役割を果たしたかについては描写がない。私の考えでは、上記の意見は過大評価ではないかと思う。しかし、明治・大正期の脚気研究が、陸軍の臨時脚気病調査会を中心に行われていたこと*1、そして、陸軍の臨時脚気病調査会を立案し、構想したのが森林太郎である事が本書の中で明らかになっている。従って、森林太郎が脚気研究に果たした役割が、決して小さくはない事が本書によりはじめて明らかになったのである。
また、臨時脚気病調査会が「脚気の原因はビタミンB1欠乏」と結論づけるのに、なぜ時間がかかったのかを明らかにしている。ヨーロッパで知られている脚気は、神経症状しか起こらないが、日本の医師は、脚気の多種多様な症状を知っていた。私も、NATROMさんの日記ではじめて知ったが、欧米では、衝心脚気の事をShoshin beriberiと表現するらしい。この事からも、欧米の研究者に、衝心脚気というものに対する概念が存在せず、彼らは衝心脚気を無視して脚気の研究を行うことが可能であった。しかし、日本では衝心脚気と言う概念が存在するため、人に対する欠食試験を経て、はじめて脚気がビタミンB1欠乏症だと結論づけることができたのである。
このように、本書は今まで森林太郎に語られていないこと、脚気研究に対して語られていないことを語っている、貴重な本であるのだが、問題点もないこともない。ひいきの引き倒し*2と見られる記述も多いし、著者の一方的な見解を述べている箇所も目につくのである。
たとえば、以下の箇所。
進歩の流れを大きく眺めれば−。臨時脚気病調査会による脚気ビタミンB欠乏説の確定、鈴木梅太郎の糠製剤オリザニンの効果確認。脚気病調査会によるビタミンB1欠乏説の確定、鈴木のビタミンB1純結晶の特効確認、潜在性脚気の認識。そしてその連続であるビタミンB研究委員会におけるアリナミンの登場−という延々とした流れを知ることができる。アリナミンの発見は確かに藤原元典個人の発見であるが、しかしそれは決して孤立した発見ではない。脚気医学とビタミン学の絶えざる進歩の流れに浮かんだ発見だったのである。
そしてその源泉は、日本の脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいた臨時脚気病調査会にある。脚気病調査会に発した研究がついに脚気の絶滅に結実したのである。
臨時脚気病調査会を創設し、脚気根絶への道を拓いた森林太郎の功績は、ひときわ高く顕彰しなければならない
[P.460-461]
この文章を読むと、私の頭には「本当かな」と言う想いと、「本当だろう」という想いが入り交じる。学問に流れがあるのは確かだろうし、流れを踏まえなくては学問の評価はできない。その意味で、森林太郎が創設した臨時脚気病調査会に端を発する脚気研究の流れは、今まで誰も踏まえてこなかっただけに、非常に興味深い。反面、私には脚気研究の流れを評価するだけの医学の素養がないため、「著者が、多彩な脚気研究の源流が森林太郎にあると設定するため、無理矢理流れを作り出している」かどうか、区別ができないのである。医学の素養がないものにとって、これらの記述は、話半分に考えるのが無難であろう。
蛇足ながら、本書には「高木兼寛は海軍の脚気を根絶したか」という一節がある。この話題に関心を持つ人のために、Wikipediaを引用しておこうと思う。私が編集したわけではないが、おおむね、本書の記述に沿っている。
脚気問題について高木兼寛(海軍軍医総監にまで昇進)は、海軍の兵食改革で海軍の脚気を根絶したとして賞賛されるのに対し、鴎外は陸軍の脚気惨害を助長したとして非難されやすい[35]。しかし、その対照的な評価には、「内実を知らない浅薄な見方にすぎない」との批判がある[36]。第一に海軍で根絶したはずの脚気病が、大正期の中頃から急増した事実がある(たとえば昭和期に入っても1928年に1,153人、また1937年から1941年まで1,000人を下回ることがなかった)。海軍で患者が大幅に増加した理由として、次のことが挙げられる。兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質と炭水化物の比例の失衡)の誤りの影響、「海軍の脚気は撲滅した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))である。
森鴎外 - Wikipedia