はじめてのおつかい、舞台裏

お母さん大学 | お母さんはスゴイ!を伝えると言うエントリーを読んで、反射的に思い出すのは、「はじめてのおつかい」である。おそらく該当エントリーを読んだ人も、「はじめてのおつかいは、どの程度真実なのか」と気になっているに違いない。あれだけの高視聴率を叩きだし、長年にわたって放送されている以上、どこかにやらせがあると考えても不思議ではないと思うのが世の習いではないだろうか。


はじめてのおつかいに関しては、担当ディレクターが著書で述べている。日本テレビに佐藤ディレクターという方がおられるのだが、はじめてのおつかいを立ち上げたときの事、番組に対する思いを文章にしている。その文章は「僕がテレビ屋サトーです」という書籍に収録されている。その文章を見る限り、私個人の印象としては「やらせはない」と感じる。しかし、「やらせでなければいいのだろうか」と引っかかりを覚えるのも確かなのである。


では、いくつか、抜き出してみよう。

『はじめてのおつかい』に、スタッフは四つの大きな柱を立てた。
1.出演依頼と一般公募は、しない。
2.撮っていることを、子供に気づかれない。
3.子供に嘘をつかない
4.子供の安全を最優先にする


この四つの柱が守られていれば、テレビ番組はおかしな事にはならないわけだ。そして、この本を読む限り「はじめてのおつかい」はこの四つの柱をかたくなに守ろうとしている。そして、その柱を守るために、様々な仕掛けを行っている印象を受ける。


出演依頼と一般公募に関しては、

おつかいをする子供たちは、スタッフが自分の目で探す。

全国に情報網を巡らせ、東にユニークな子供がいると聞けば見に行き、西に豪傑の母ありと聞けば話しに行く。<<ママさんズ>>という女性リサーチ隊が、その担当だ。

両親と打ち合わせを重ね、子供身上調査書を作る。厚さ3センチになる。そのころにはお母さんも、スタッフの一員になっている。お母さんが<<テレビに出る子のママ>>ではなくて、<<一緒に冒険する母>>になるまでじっと待つのだ。待つこと3年、子供が小学生になっちゃった、なんて笑えない話もあった。

そして、撮っていることを子供に気づかれないための工夫として、

子供は、そんな企みが進んでいるとは、知らない。スタッフは、お母さんのヨガのお友達だったり、電気屋さんだったりするからだ。子供をなるべく遠い家に預けてもらって、電気屋さんは大急ぎで室内に隠しカメラを仕込む。


この本を見る限り、「はじめてのおつかい」は、台本なるものが一切存在しないそうだ。

前の晩に母さんは隠しマイクを子供の服にせっせと縫い付けて、送信機をお守り袋に隠す。そのお母さんの顔の嬉しそうなこと! と、ここまではテレビ局と母親が<<仕掛けた>>一幕なのだが、一旦子供が家を飛び出した瞬間からあとは、すべてが自然のままに進行する。番組を面白くするための仕掛けや嘘は、一切ない。それが『はじめてのおつかい』の信条だ。僕らは無骨にそれを守る

当然のことながら、「すべてが自然のままに進行する」以上、番組作りは大変なものとなる。

だから、番組作りはいつも修羅場だ。放送するにはどうもねェというおつかいが、毎年どっさり、それこそダンプカー一杯も撮れてくる。イヤッ! と言い張る子、1時間泣きつづける子。反対に見事におつかいをやってのけてちっとも面白くない子! スタッフルームはお蔵入りのテープで埋まる。

その代償は大きなものとなる。

10倍のエピソードと3000倍の素材が捨てられている。ふつう、2時間の特番で7つのおつかいを放送するが、その陰で70のおつかいが撮影され、70組の子供と70人の母さんと、かかわってくださった多くの人々の努力が捨てられている


「はじめてのおつかい」には、確かに撮影に関しては作為はない。どこをどう切り取っても「やらせ」と言える様な行為は存在しない。しかし、真実を描いているかどうかは、私には疑問である。今回批判されている番組と、「はじめてのおつかい」の違いは、前者が台本を作り、送り手側の意図通りの番組を作り、後者が山のように素材を取り、その中から厳選して、送り手の意図に沿うような番組を作ると言う違いである。送り手の意図通りの番組を放送するという点では、何も違いがないように思う。テレビ番組というメディアにした時点で、何らかの作為、意図が入り込むのは避けられないのではないか。


佐藤ディレクターの本を読むと、はじめてのおつかいに対して二つの気持ちがわいてくる。一つは、掛け値無しに凄い番組だという意識。この様に手をかけることで、面白い番組ができるものだし、この様な手をかけた番組だからこそ、視聴者がこの番組を見ているのだなと思った。

一方で、番組を作るために、10倍のエピソード、3000倍の素材を捨てるというのは、不自然のようにも思う。視聴者が「はじめてのおつかい」に期待しているのは、自然な子供たちの姿だと思うのだが、自然さを描写するために、不自然なまでに素材を捨てているところに矛盾を感じるのである。